保護者達の伴奏曲−序曲−
作:デビアス・R・シードラ様
「・・・これが全財産か」
そう呟く相沢祐一。この冬に奇跡を撒き散らした彼でも、自分の財政状況に奇跡をもたらすことは出来なかったようだ。
「奢ることが原因だよなあ」
銀行のATMに別れを告げ、歩きつつ呟く。
彼は決して金遣いが荒いわけではない。むしろ、この冬で彼が自分のために買ったものなどCD一枚がいいところだろう。それにもかかわらず彼の財布の中身はぎりぎり4桁というところまで陥っていた。
春とはいってもまだ冷たい風が吹く、その風よりも寒い財布の中身。
その彼のお金の使い道、CDのほかに自分のために使ったものなどは学食での昼飯。
あとはたまにコンビニによって菓子を買う程度のものである。
「・・・なんとかしないとなあ」
そう言いながらそれが不可能であることをわかっている祐一は、これでもか!というぐらいのため息をつく。
自分自身無理ということがいやというほど解っているからだ。
目線を下に落とし、気落ちしたのが一目でわかりそうな祐一。
そのまま商店街を歩いていく。
「あれ、相沢さん」
そのため息と疲れ切ったような状態によって気がついたと言うわけではないだろうが、祐一の背後から声がかかる。
「天野?」
声から判断して該当の人物と思われる人間の名前を呼びながら祐一は振り向く。
そこには予想通りの人物が立っていた。淡いベージュ色のセーターを着こんだ彼女、天野美汐が。
その服装は制服を着ているときよりもむしろ年齢相応にみえて、どことなく祐一は不思議な気分になる。
「はい。どうしたんです?ため息なんかついて」
心配げに見つめる美汐。本当に心配そうに。
そこまで気にかける理由は簡単である。
いつも明るく、自らの心を救ってくれた祐一は、天野美汐にとっても想い人である。その人が疲れ果てたようなため息をついていれば気にならないほうが無理と言うものである。
「いや・・・とくになんでもない」
そういう祐一の表情は明らかに何かを隠している。もちろん美汐にもそれを感じ取れることができた。
「そうですか・・・」
祐一の表情とは逆の言葉に対して明らかに落胆した声の美汐。その声と哀しげな表情にはっとする祐一。
「いや、あのな・・・」
「私では相談相手にはなりませんか?」
やや下側から覗き込む、それは不安げな表情とあいまって男心をくすぐる物であり、それは祐一にとってはつぼとも言うべきものだった。
基本的に男がそれも美少女といっても言い女性からやられたら、いやがおうもないとは思うのだが、それにもまして祐一にとって女性の涙というものはもっとも見たくないものであるし、自分に関係のある女性に関してならその思いは一層強くなる。
ましてや、今までの人生を半ば泣きつづけて生きてきたような少女、天野美汐の涙など言うまでもないことである。
「そ、それじゃあ、相談に乗ってもらおうかな」
祐一にとって見れば、後輩でもある美汐に相談したくはなかった。
年下のものと言う認識もあるし、何より心配をかけたくなかった、そういった意味で渋っていたのだが、半ば泣き出しそうなあんな表情を見せられてはNOとはいえない。
「とりあえず、立ち話でする話でもないし、どこか喫茶店にでもいって話そう」
「はい、では百花屋にいきますか?」
祐一が自分に相談してくれる。
すこしでもいい、自分を頼ってくれている、ほんの少しでも祐一に対して恩返しができる、そのことに美汐は嬉しくなり、やや明るい口調で答える。無論祐一にとって見れば美汐が恩に思うことなど自分はしていないと考えているし、逆に美汐に対して恩があるとすら思っているのだが。
「いや、あそこはまずい」
そういった祐一の口調は美汐とは対照的に暗く渋いものだった。
「何かまずいんですか?」
不思議そうに聞き返す美汐。
放課後良く訪れる喫茶店で、とくに美汐からしてみれば問題など無いように思える。
店の雰囲気も良いし、味も良い。
「まずいんだよ、とりあえずほかのところにしよう」
「それなら、群雲って言う喫茶店ならどう?」
二人の会話に突然割り込んでくる声。
「香里?」
「香里先輩」
振り向いた二人の目の前にたっていた人物。二人に声をかけてきたのは美坂香里だった。天野美汐のように相沢祐一に心を救われた者だ。
自分の妹、その存在すら忘れてしまえば・・・そう思った彼女の心を救い、妹の命を救った人、そう思っている香里にとって相沢祐一は想い人なのである。
もっともそのこととは別に普段の祐一の姿や、その笑顔に魅了されたということもあるのだが。
白色のダウンコートを着込んだ香里は少し寒そうに、立っていた。
彼女の妹の事・・・冬でもアイスを食べる・・・からすれば寒さに香里も強いと思われがちだが、以外に彼女は寒いのが苦手だったりする。
「こんにちは、天野さん」
「こんにちは、香里先輩」
挨拶に対し、思わず律儀に丁寧に挨拶仕返ししてしまう美汐。こういったところが祐一に「おばさんくさい」とからかわれる所なのだろうか。
「で、あたしにも話し聞かせてくれる?」
「なんのはなしだ?」
「誤魔化しても無駄よ、ほとんど最初から聞いていたから」
そう言って勝ち誇った表情を浮かべる香里。
それとは逆に、美汐はどことなく寂しそうな表情を浮かべていたが。
「まあ、香里なら問題はないか」
安心したように頷く祐一。
その言葉で更に寂しげになる美汐。自分だけと思っていたところを半ば邪魔されたと感じているのだろうか。
美汐の表情を見て悪いことをした、と思う香里。香里にとって栞の友人でもある美汐は、可愛い後輩であるとともに、もう一人の妹のように思っているのである。
どこか影のあるところ、そして無理に落ち着こうとしているところ。無理に大人ぶっている、大人になろうと無理に心の弱さを隠そうとしているところが保護欲をかきたてられるのである。
逆に香里のそんな表情を見て美汐のほうがすまなそうな表情を浮かべる。反対に美汐にとっても香里は姉のような存在なのである。
もっともその二人を結び付けた相沢祐一は、そんな二人のやり取りにはこれっぽっちも気が付いてはいないのであるが。
「で、その香里のいう喫茶店はどこにあるんだ?」
「この商店街のはずれに有るわ」
香里に引き連られるようにして商店街を歩いていく3人。
「へー、なかなか落ち着きがあって良いな。・・・もっともこの位置だとこの店外から気づきずらそうだな」
祐一の言うとおり外装はシックな洋風建築であり、どことなくレンガ造りが15世紀ヨーロッパの雰囲気を思わせる。
そして、確かに目立たない店だろう、大通りから一本中へと入るように伸びている小道の途中にその店舗があるためである。
少し入りづらくもあり、そこが逆に隠れ家的な魅力もかもし出していた。
「そうね、名雪たちも知らないと思うわ。それに最近できたばかりだし」
マスターも良い人なのよ、と香里は付け足しながらドアを空ける。
乾いたベルの音と共に中へ入っていく香里。
「それは、好都合だな」
そんな香里を見ながら祐一も中へと入る。
「でも、それなら逆に新しいということで来る可能性もありませんか?」
二人の言葉に疑問を感じ、それを口にしながら美汐も続く。
「大丈夫じゃないかしら」
席を探しながら香里がコメントを返す。
店内も外装同様シック。2色の暖色で落ち着いたコーディネートがなされた店内は趣味もよく、間接照明で照らされた店内はその内装とマッチして非常に落ち着いた雰囲気をかもし出している。
客は今入ってきた祐一達の他には奥まったところに一人女性がいるだけだ。
もっとも奥まった部分にいるためにその女性の顔の判別まではできない、その女性が若い女性であることはわかるが。
「それはどうしてです、香里先輩」
奥まったテーブル席を選択した香里。その対面に美汐は座る。
「名雪は今日部活だし、あの子なら間違いなく百花屋でしょ?」
「それはそうだな」
妙に納得しながら祐一は美汐の隣へと腰掛ける。
その祐一の座る場所を見て、ちょっと寂しそうな、どことなく祐一を責めているような目線で香里は答える。
「真琴もきませんね。あの子は未だに人見知りしますから、始めてのところにはこないでしょう」
逆に少し喜んで答える美汐。無論祐一は二人がどうして対照的な反応をするのか、などには気がついていない。
ある意味、すごい大物であるだろう。
話しに出てきた『真琴』。実は人間ではない、いや、なかったというべきか。
今現在は普通の人間と何ら代わらずにいる、その彼女は妖狐と呼ばれる種族の者。
幼い頃に自分を救ってくれた祐一に会いたいという一心から、人の姿となって祐一の前に現れた。
その代償として自らの記憶と、命を削って。
そしてその短いはずの一生を終えようとした時に、彼女もまた『奇跡』と呼ばれるものに救われたのである。
ちなみにフルネームは沢渡真琴、旧姓ではあるが・・・なぜ旧姓かというのかについては、彼女を取り巻く今の状況から説明しないとならない。
真琴はその生い立ちからもわかるように、人間に身寄りなどはいない、もちろん戸籍も存在しない。
そこで、祐一の叔母である秋子がきちんと戸籍をつくろうということになったのだが、それに伴って養子縁組を組むことによって真琴を家族として迎えようという話へと展開したのだ。
そこで、話に入ってきたのが祐一の母親、秋子にとっての姉、夕夏である。秋子も大変だから真琴ちゃんはわたしが引き取るわ。
秋子はもう二人も娘がいるんだから、私も娘ほしいし!そう言って。
で、今は協議中である。真琴本人の決断次第ではあるのだが。未だに答えは出ていない。
「あゆもいまはこないだろう。あいつも部活だからな」
あゆ。そう彼女こそ相沢祐一に記憶の呪縛をかけた少女である。祐一の目の前で木から落ち、7年のあいだ眠りつづけた少女。
奇跡の力に導かれて眠りから覚めた彼女。
彼女もまた相沢祐一に救われたものの一人だろう。
旧姓月宮あゆ。身寄りのいないあゆは現在秋子に引き取られ、水瀬あゆとして、水瀬家の次女である。
「そうね、それにあゆちゃんは喫茶店って余り入らないし」
7年のあいだ眠りつづけた割に体はまったくといって良いほど衰弱していなかった。
7年の眠りからおきたこともそうだが、筋肉などが衰弱していないことに医者は奇跡としか言い様がない。そう言って喚きたてた。
そして、むりにでも研究しようとするものまで現れた。
もっともその医者は次の日には見かけなくはなったが。
医師免許剥奪、医師会からの除籍。
その他もろもろいろいろなものを食らったそうだ。
財産までは奪われなかったので、すぐに国外逃亡したらしいが・・・まるで犯罪者のように。
「舞もこないだろうなあ」
祐一の言葉に香里と美汐の二人はうなづく。
川澄舞。彼女は相沢祐一を8年のあいだ待ちつづけていた。
自ら作り出した、自分の分身、命の共有をしている魔物。
自分自身と。
魔物が傷つけば、自分が傷ついていく。
その戦いは祐一がこの街を訪れたことにより終わりを告げる。
魔物の死=舞の死そうなることによって、終わりを。
しかし、彼女にも奇跡は訪れた。
今はその傷すら残っていない。自らの力を受け入れ、その力の行使すらできるようになっていた。
彼女もその性格などからすれば一人で喫茶店にはこないだろう。
「でも栞さんは?」
美坂栞。不治の病といわれ、自分の誕生日を迎えられないだろう。
そうとまで言われた少女。
自らに絶望し、姉に捨てられたと思い自殺まで考えた少女も、いまは昔の話である。
今は元気過ぎて、姉を困らせるほどであるのだから。
彼女にも奇跡が舞い降りたのである。
「ああ、あの子は大丈夫よ」
美汐の疑問に香里はなにかおかしいのか、笑いながら答える。
「そうか?あいつなら、間違いなく新しい喫茶店できたら来そうだが。まあもっともここは結構わかりづらいけどな」
「あの子、今お金ないから」
そういって面白そうに笑う香里。
「どうされたんです?」
「ジャンボデラックスパフェ頼んだのよ、昨日」
本当に面白そうに話す香里。
「あの3500円するやつか!」
一気に祐一の財布の中身を奪い去っていく、祐一にとっては悪魔のメニュー。
しかも、頼んだ本人がほとんど食べないというおまけつき。
「昨日相沢君百花屋行かなかったでしょ?」
「ああ、用事があったから急いで帰ったからな」
用事ということが気にかかったのか、やや眉をひそめる美汐。
もっとも人の話に割り込むようなことはしないが。
「それが原因よ」
香里は苦笑いしながら答える。
相変わらず美汐は祐一の用事が気にかかっていたが、香里の話の方の興味が強く、ここでは聞かないままだった。
もっとも香里の話がよくわからなく、そちらのほうを考えるのに意識をさいてしまったのも要因だが。
「?」
祐一にしてみても香里の話が理解はできていなかった。
「「??」」
祐一と美汐二人とも話のつながりがわからなく、不思議そうな表情のまま。
そんな二人を楽しげに見ながら香里が口を開く。
「相沢君ならほぼ毎日行く、というか、名雪とかにつれてこられるでしょ?」
「不本意ながらな」
本心から祐一にとっては不本意極まりないことである。
彼自身が寄りたいわけでは決してないのだから。
しかもよれば彼の財布は軽くなるのである。彼自身が何も頼まないとしても。
「あの子それを期待して相沢君が来たら奢らせようとしてたのよ」
「「!」」
「ところが、相沢さんはこなかった、というわけですね」
美汐がいち早く驚きから復帰し、聞き返す。
「そう、で、自分で払うしかなかったというわけ」
どことなくいい気味と言った感じで笑う香里。
「なるほどな・・・じゃあ、問題はないな」
3500円もいきなり予想しない出費があったのだ、その次の日に出費が出そうなところには行かないだろう。
「あら、でも佐祐理ちゃんなら来るかもしれませんよ?」
突然割り込んでくる声。
「それは、そうですね」
「確かに」
「佐祐理先輩ならありえますね」
三人ともにいきなり割り込んだ声に納得する。
「「「・・・!?!?」」」
納得し振り向いたときに、やっとおかしなことに気がついたのか、祐一が割り込んできた声の主に話し掛ける。
「って秋子さん!?」
「はい」
「はいじゃなくって、ですね」
普通に返答が返ってきてしまったので、逆に慌ててしまう祐一。
「やはり、こんにちはですか?挨拶は大事ですよね」
いつものようにほほに手をあて、微笑みながら話す秋子。
「いや、それは大事ですけど」
苦笑するしかない祐一。
水瀬秋子、相沢祐一にとっての叔母にあたる、現在祐一の居候先の家主でもある。
その彼女もまた祐一が起こした奇跡によってその命を救われた者の一人だろう。
いきなりの交通事故、意識の回復は難しいだろうとさえ言われた。
しかし、そこからの生還。体におったのは少々の擦り傷と軽い打撲程度。
意識回復後のCRTなどでも何の異常もでなかった。
そんな彼女もまた、祐一に対して淡い思いを抱いている女性でもある。
もっとも自分にとっての甥であるということも、重々承知してはいるのだが。
「香里ちゃん、美汐ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちは秋子さん」
二人とも軽く会釈しながら挨拶を返す。
「それで、祐一さん、佐祐理ちゃんはどうするんです?」
「いや、そもそも・・・秋子さんいつから?」
祐一は苦笑を浮かべたまま問いかける。
「ええと、栞ちゃんの話しのあたりからかしら?」
「結構最初から聞いてたんですね。あ、ひょっとして奥に居た」
「ええ、そうですよ。ええと、わたしも聞いても大丈夫なんですよね?」
どことなく確信を持った秋子の言葉。
「秋子さんなら問題はないです、同様に佐祐理さんも」
祐一と秋子の話を聞きながら、香里と美汐もそういえば奥に一人若い女性が居たことを思い出す。
「つまり佐祐理先輩も問題ないわけね?」
「ああ」
確認する香里に祐一は答える。
「とりあえず、注文しませんか?」
「そうね」
美汐の言葉に同意する香里。
マスター一人でやっている小さな店。マスター自らが注文を取りに来る。
「俺はこのオリジナルブレンドコーヒー」
メニューを一瞥すると、祐一は即決断する。
【当店お勧め、ぜひ一度お試しください】そう銘打ってある。
「あたしも」
祐一の返答後、すぐに香里も決断する。
「じゃあ、わたしも。このコーヒーを」
今まで飲んでいた、空のカップを下げてもらいながら秋子もコーヒーを注文する。
そこに残った香りからして、秋子が飲んでいたのは紅茶だろう。
「・・・それでは私も」
最後に残った美汐が注文すると、マスターは厨房になっているカウンターの向こうへと去る。
その後姿をなんとなく見ながら祐一が問いかける。
「天野がコーヒー頼むなんて珍しいな」
「好きな人が飲もうとしていて、その人を思う人達が皆飲んでいるのに、私だけそれを飲まないなんてことはできないです。そんなことを聞くなんて酷でしょう・・・」
祐一には聞こえないようにほほを赤く染めつぶやくように言う美汐。
そんな美汐をみて祐一は風邪か?などと場違いな事を考えているが、秋子と香里はそんな美汐を見てほほえましく、微笑みを浮かべていた。
今の時代においては珍しいぐらいに純情で一途。
それであるがゆえに過去を引き釣り続けていたということもある。
美汐という少女は基本的に非常に保護欲を駆り立てられるとでも言うのだろうか、同姓である秋子や、香里にとってもそれは同じことであり、妙に構ってあげたくなってしまう。
むりに振舞っているのが、いかに無表情でいようとしてもわかってしまうから、そしてそのけなげさが構ってあげたくなってしまう。
「さっそくだけど、相沢君の話しって?」
美汐がどことなく困っているのを見かねて、というわけではないだろうが、すぐに香里が話を切り出す。
「ああ、実は最近思うんだが・・・」
その声と重なるようにドアを空ける音と、乾いた鐘の音が鳴る。
「うーん、寒いですねー」
その言葉とは裏腹に明るい声が響く。
「おや?いらっしゃい」
マスターとは顔なじみなのだろうか、入ってきた客を見てマスターから声をかける。
「今日はバイトの日じゃないよね?」
「そうですよ。今日はお客さんとしてきました」
売上に貢献しますね。と笑顔で答える。
「あれ?佐祐理さん」
「あ、祐一さん!」
祐一の姿を見つけると、スキップしそうなほどにうれしそうなステップで祐一たちの居るテーブルへと歩いて行く。
倉田佐祐理。彼女もまた祐一に救われた女性である。
彼女自身に奇跡がもたらされたわけではない。彼女の友人に奇跡はもたらされた。
そのことで彼女は彼に対し、感謝の念を持っている。
そのときの彼女の怪我が傷跡すら残らなかったのは奇跡なのかもしれないが。
もっともそれとは別に、そのことがなくても、佐祐理にとって相沢祐一は特別な存在である。
いつまでも過去を引きづっていた自分を、前へと向かせてくれた。過去を忘れるという方法ではなく、過去ときちんと対面することを促してくれた。
そんな自分を支えてくれた彼、相沢祐一は佐祐理にとって恩人であると共に想い人である。
いつも自分の作る昼ご飯を『美味しい』そういって食べてくれる人。その他いろいろな面から相沢祐一という男に惹かれていったということもあるが。
「みなさんこんにちは」
きちんとお辞儀しながら挨拶をする佐祐理。
「こんにちは、佐祐理ちゃん」
「こんにちは、佐祐理先輩」
すぐに返答を返す、秋子と美汐。
「こんにちは、佐祐理先輩」
香里もすぐに挨拶を返す。
ちなみに倉田先輩とこの二人は最初呼んでいたのだが、佐祐理本人の希望もあり、今は佐祐理先輩と呼んでいる。
「ごいっしょしてもいいですか?」
「もちろんいいですよ」
佐祐理の笑顔に祐一も笑顔で返す。
その笑顔に四人が顔を赤く染めるが、無論、祐一にはその意味はわからない。
空いている席を確認し、祐一の隣に座る。
それを見てうらやましそうに見る香里。そんな香里にすまなくも感じながら、それでもうれしい佐祐理。
現在席順は、出入り口側の窓がわに香里、通路がわに秋子。その対面窓がわから美汐、祐一、佐祐理といった順番である。
「ところで皆さん何の話しをしていたんですか?」
佐祐理も同じコーヒーを注文しながら聞く。
彼女いわく、このオリジナルブレンドは相当なお勧めとのこと。
佐祐理が自信を持って進めると言うことがこのコーヒーの味の良さを示しているだろう。
「いま、ちょうど来たところなんですよ」
香里が苦笑しながらこたえる。
「じゃあ、何の話しをしていた、というわけでもないんですね?」
「何の話しをするかについては決まってはいるのですが」
続く美汐の言葉に佐祐理は不思議そうに首をかしげる。
「どういうことです?」
「祐一さんの話しを聞くということになっているんですよ、佐祐理ちゃん」
「祐一さんの話?」
祐一に視線を向けながら佐祐理は聞き返す。
「まあ、一応・・・相談にのってもらおうかと思って」
「祐一さんが相談?佐祐理になら大歓迎ですよ」
屈託の無い笑みを浮かべて答える佐祐理。
そこには、かつてのようにどんな時にでも笑顔でいようとした、彼女の姿は無い。
「で、相沢君。何の話なの?」
香里の言葉に、祐一は神妙な顔になりうなづき、そして自分の悩みを話始めた。